東京地方裁判所 平成10年(ワ)14111号・平11年(ワ)7114号 判決
主文
一 被告(反訴原告)有限会社平和事務所及び被告藤原生和は、原告(反訴被告)天野汎に対し、各自金三三三三万三三三四円及びこれに対する平成一〇年六月二七日から支払済みまで年六分の割合による金員を支払え。
二 原告(反訴被告)天野汎のその余の請求を棄却する。
三 被告(反訴原告)有限会社平和事務所の反訴請求を棄却する。
四 訴訟費用は、本訴、反訴を通じてこれを五分し、その一を原告(反訴被告)天野汎の負担とし、その余は被告(反訴原告)有限会社平和事務所及び被告藤原生和の負担とする。
五 この判決は、第一項に限り仮に執行することができる。
事実及び理由
第一請求
一 本訴請求
被告(反訴原告)有限会社平和事務所及び被告藤原生和は、原告(反訴被告)天野汎に対し、各自金四四九五万円及びこれに対する平成一〇年六月二七日から支払済みまで年六分の割合による金員を支払え。
二 反訴請求
原告(反訴被告)天野汎は、被告(反訴原告)有限会社平和事務所に対し、金一〇〇万円及びこれに対する平成一一年四月六日から支払済みまで年六分の割合による金員を支払え。
第二事案の概要
本件は、原告(反訴被告)天野汎(以下「原告」という。)が、病院用建物の賃貸借契約終了を理由に、貸主の被告(反訴原告)有限会社平和事務所(以下「被告会社」という。)及びその保証人である被告藤原生和(以下「被告藤原」という。)に対し保証金の返還を求めたのに対し、貸主の被告会社が、反訴により、賃貸借契約が存続していることを前提として、賃料の支払を求めた(一部請求)事案である。
一 争いのない事実
1 原告は医師であり、被告会社は不動産賃貸業等を営む会社であり、被告藤原は被告会社の代表取締役である。
2 原告は、昭和六四年一月一日、被告会社との間で、別紙物件目録記載の建物(以下「本件建物」という。)を、原告が次の約定で被告会社から賃借する旨の賃貸借契約(以下「本件賃貸借契約」という。)を締結し、本件建物の引渡を受けた。
(一) 使用目的 病院
(二) 期間 昭和六四年一月一日から二〇年間
(三) 賃料 月額五〇〇万円
(四) 支払方法 毎月二五日限り当月分の賃料を支払う。
(五) 保証金 原告は、被告会社に保証金として一億円を預託する。
保証金は、本契約終了後、原告が本件建物を明け渡した後に、本契約に関して生じた原告の被告会社に対する一切の債務を差し引いた残額を返還するものとする。
(六) 解約 原告は、真にやむを得ない事由がある場合は本契約期間中といえども六か月前に予告して本契約を解約することができるものとする。ただし、原告は予告に代えて六か月分の賃料相当額を支払い本契約を即時解約することができるものとする。
3 被告藤原は、昭和六四年一月一日、原告に対し、本件賃貸借契約に基づく被告会社の債務を保証する旨約した。
4 原告は、右同日ころ、被告会社に対し、本件賃貸借契約に基づく保証金(以下「本件保証金」という。)として一億円を預託した。
5 原告は、被告会社から本件建物の引渡を受けた後、本件建物で浦安病院の名称で病院を経営していた。
6 原告は、平成六年四月二五日、被告会社との間で、覚書により次の合意をした。
(一) 平成六年四月以降は、賃料月額五〇〇万円のうち五〇万円と本件保証金の返還債務とを毎月二五日に対当額で相殺する。
(二) 原告は、原告が被告会社から二二〇〇万円を借り入れていることを確認し、右借入金は、本件賃貸借契約の終了時に本件保証金の返還債務と対当額で相殺する。
7 原告は、平成八年一月二六日付け書面により、被告会社に対し、浦安病院の経営が経済的に苦しい状態にあることを理由に、本件建物の賃料を月額三五〇万円に減額してほしい旨申し入れた。
8 原告は、平成八年五月分以降、平成一〇年一月分まで、本件建物の賃料として毎月四〇〇万円を現実に被告会社に支払っていた。
9 原告は、平成九年九月三〇日に到達した書面で、被告会社に対し、本件賃貸借契約を解約し、平成一〇年四月六日をもって本件建物を明け渡す旨の意思表示(以下「本件解約の意思表示」という。)をした。
10 原告は、平成一〇年四月七日、被告会社に対して、本件建物を明け渡した。
二 本件各請求の内容(訴訟物)
1 本訴請求
本件解約の意思表示により本件賃貸借契約が終了したことに基づき、貸主である被告会社及びその保証人である被告藤原に対し、各自、本件保証金一億円から次の金額を控除した残額四四九五万円及びこれに対する訴状送達の日の翌日である平成一〇年六月二七日から支払済みまで商事法定利率年六分の割合による遅延損害金の請求
(一) 前記覚書による賃料相殺分二四〇〇万円(平成六年四月から平成一〇年三月まで四八か月分)
(二) 前記覚書による借入金相殺分二二〇〇万円
(三) 平成一〇年二月分ないし四月分の右相殺分を除く未払賃料九〇五万円(賃料が月額四五〇万円であることを前提として、同年二月及び三月分の合計八〇〇万円と四月分の日割計算額一〇五万円との合計額)
2 反訴請求
本件賃貸借契約に基づく、本件解約の意思表示後である平成一一年二月分の賃料五〇〇万円の内金一〇〇万円及びこれに対する反訴状送達の日の翌日である平成一一年四月六日から支払済みまで商事法定利率年六分の割合による遅延損害金の請求
三 争点
1 本件解約の意思表示による本件賃貸借契約解除の成否
(原告の主張)
(一) 本件建物賃貸借契約には、前記のとおり、「原告は、真にやむを得ない事由がある場合は本契約期間中といえども六か月前に予告して本契約を解約することができるものとする。」との約定があるが、建物賃貸借契約の借主には一般的に解約の自由があり、右約定は借主の解約の自由に極端な制約を加えるものであるから、公序良俗に違反し無効である。
(二) 仮に、右約定が有効であるとしても、原告には本件賃貸借契約を解約することについて、次のとおり、やむを得ない事由がある。
(1) 本件建物は、低コストで造られていたため、雨漏りやトイレの悪臭がひどく、病院施設としての設備も不十分であり、また、病院経営上、入院患者に対するサービスとして、一ベッド当たりの建物の床面積は一〇坪程度必要であるにもかかわらず、本件建物の一ベッド当たりの床面積は六・七坪程度しかなかったことから、原告は、本件賃貸借契約締結の翌年には、多額の費用を掛けて本件建物の改修工事や設備投資をせざるを得なかった。更に、本件建物の周辺地域の患者は内科に偏っており、若年層が多く、罹患率も低かったため、本件建物は総合病院に適した場所に所在しているとはいえなかった。このような問題点から、原告の経営努力にもかかわらず、浦安病院の経営収支は当初から赤字の状態にあった。
(2) そこで、原告は、平成四年九月、病院経営に明るい肥田野正義(以下「肥田野」という。)を事務長に採用し、経費の支出を徹底的に抑えるなどの経営改善に当たらせたが、本件建物の月額五〇〇万円の賃料は近隣の相場からみて高過ぎ、月額三〇〇万円程度が適正な賃料額であり、収入に占める賃料の割合も一〇パーセントを超える額であったため、肥田野は、事務長に就任後、被告会社との間で賃料減額交渉を行った。その結果、平成六年四月二五日に、前記覚書により、毎月の賃料五〇〇万円のうち五〇万円を本件保証金と相殺することを合意するとともに、覚書締結の日から五年以内に賃料を見直すための協議を行うことが合意された。その後、原告と被告会社とは、賃料減額の交渉を継続し、平成八年一月ころからは、原告が賃料減額の合意に至らない場合は本件賃貸借契約を解約して他に移転するとの態度を明らかにしていた。そして、平成八年五月一三日、被告会社は、賃料を月額四五〇万円に減額することに応じたものの、支払賃料を月額三〇〇万円に減額するように求める原告に対し、それ以上の賃料の減額には応じようとしなかった。
(3) 以上のとおり、原告は、被告との間で、平成四年九月以降、賃料減額の交渉をしたが、原告の求める支払賃料月額三〇〇万円への減額は実現せず、浦安病院の経営収支は賃借時からほとんど赤字で、負債が累積する状態にあったことから、原告は、平成九年九月二六日付けの書面で本件賃貸借契約を解約する旨の意思表示をした。
(被告らの主張)
(一) 本件賃貸借契約における、「真にやむを得ない事由がある場合」でなければ原告が中途解約できないとする約定は、被告藤原が本件建物を取得する際、銀行借入により多額の資金を投じていたことから、賃貸借期間中に中途解約されてローン返済が困難となることを防止するために設けられたものであり、本件賃貸借契約締結に至る交渉において、原告側が提示した賃貸借契約書の原案では単に「やむを得ない事由がある場合」となっていたのを、被告らの要請により前記文言に修正した経緯がある。
(二) 原告は、浦安病院の経営収支がほとんど赤字であったと主張するが、原告の給料、保険料や税金等を支出から除外すると、経営収支は昭和六二年度と平成二年度を除いて黒字であった。
(三) また、本件建物の所在する地域で新たに病院を開設することは、千葉県の医療計画上の制限から現在不可能であり、被告会社が本件建物を病院として他に賃貸することはできない状態にある。そのため、被告会社は、原告が本件建物を明け渡した後、本件建物でも開設することが可能な診療所を開設するなどしているが、本件建物の一部を使用するにとどまっており、大幅な収入減により多大な不利益を被っている。
(四) 以上の点から、原告の本件賃貸借契約の解約の意思表示には、真にやむを得ない事由が存在せず、右意思表示は無効である。
2 被告会社が返還すべき保証金額
(一) 原告と被告会社間の賃料減額合意の存否
(原告の主張)
原告と被告会社は、平成八年五月一三日、本件建物の賃料月額五〇〇万円を、同年五月分から月額四五〇万円に減額する旨の合意をした。
原告は、前記のとおり、平成八年五月分から平成一〇年一月分まで毎月四〇〇万円を現実に支払い、残金五〇万円は本件保証金返還債務と毎月相殺していたから、本件賃貸借契約終了に伴い被告会社が原告に返還すべき保証金額は、一億円から、賃料相殺分二四〇〇万円(平成六年四月から平成一〇年三月まで四八か月分)、借入金相殺分二二〇〇万円、平成一〇年二月分ないし四月分の右相殺分を除く未払賃料九〇五万円(二月及び三月分八〇〇万円と四月分の日割計算額一〇五万円との合計額)を控除した残額の四四九五万円である。
(被告らの主張)
原告と被告会社との間で賃料減額についての協議が重ねられていたことはあるが、原告主張の減額の合意がされたことはなく、原告が、一方的に平成八年五月分以降の賃料を五〇万円減額して振り込んでいたにすぎない。
(二) 原状回復費用による相殺
(被告らの主張)
(1) 本件賃貸借契約は、昭和六一年一一月二三日、被告らと原告との間で締結された本件建物での病院経営に関する契約(以下「旧契約」という。)の本件建物の賃貸借に関する部分が実質的に継続されたものであるから、本件賃貸借契約における原告の原状回復義務は、本件建物を旧契約締結時の状態に回復することであり、その原状回復費用は合計六〇五九万円である。
(2) 被告らは、平成一〇年一二月九日の本件第四回口頭弁論期日において、右原状回復費用と本件保証金返還債務とを対当額で相殺する旨の意思表示をした。
(原告の主張)
(1) 旧契約は、原告と被告らが本件建物で浦安病院を共同経営することを内容とするものであり、本件賃貸借契約は旧契約とは別個独立に締結された賃貸借契約である。したがって、本件賃貸借契約における原状回復義務も、本件建物を昭和六四年一月一日の本件賃貸借契約締結時の状態に回復させることを内容とするが、原告は、本件賃貸借契約締結後、建物の保存に必要な軽微な修繕、改修工事しかしておらず、明渡時の本件建物の状態は本件賃貸借契約時と特に変わりはないから、原状回復義務は存在しない。
(2) 被告らは、原告から本件建物の明渡を受けた数日後から、内装、什器、備品等をそのまま利用して本件建物で浦安クリニックを経営しているのであって、原告は、被告らが継続してそのまま使用できる状態で本件建物を明け渡したのであるから、本件建物を原状に回復する必要もない。
(3) 原告と被告会社は、本件建物の明渡について事前に担当者が協議して、本件建物内の内装、什器、備品等の大部分はそのままにし、残置する動産類と原告が移転先に搬出する動産類の区分について合意した上、原告はその合意に従って動産類を搬出したから、原告はそれ以上の原状回復義務を負わない。
第三争点に対する判断
一 争点1について
1 甲第二、第三号証、第五ないし第八号証、第一〇、第一二、第一三、第一五号証、乙第一、第二号証、第三号証の一、二、第一二ないし第一四号証、第一六、第二六号証、証人肥田野正義の証言、原告本人尋問の結果及び被告本人兼被告会社代表者藤原の尋問結果(以下「被告藤原本人尋問の結果」という。)によれば、次の事実を認めることができる。
(一) 原告は、日本医科大学卒業後、同大学附属病院や民間の病院等で医師として勤務していたが、昭和五六年三月ころ、同大学の先輩の岸本晃男医師から、同医師が開設していた東京都江戸川区松江所在の松江病院の分院として、本件建物で浦安病院を開設することになったので、副院長に就任してくれないかとの誘いを受け、同年四月から、浦安病院の副院長として勤務するようになった。
(二) 被告藤原は、岸本晃男医師と従兄弟の関係にあり、当時、浦安病院の事務長をしていた。また、浦安病院の院長は、岸本晃男医師の父である岸本正義が就任していた。被告藤原は、院長の補佐役として浦安病院の経営面に携わり、複数の大学病院の関係者を接待するなどして、急性期を過ぎた患者を浦安病院に転送してもらうなどの営業活動をしていた。
(三) 昭和六一年に、松江病院が隣地を購入して病院施設を拡張する一方、浦安病院は他に売却することになった。そこで、被告藤原は、浦安病院を自ら買い取った上、原告に病院施設を賃貸して院長として病院を運営してもらい、自己もこれまでの人脈等を利用した営業活動をして浦安病院の経営に寄与することを企図し、原告と交渉した結果、原告もこれを了承した。
(四) 被告藤原は、昭和六一年一一月一二日に、株式会社三和銀行浦安支店から四億五〇〇〇万円を借り受け、病院としての設備等を含む本件建物及びその敷地を所有者の株式会社徴今堂(その実質的オーナーは岸本医師であった。)から買い受けた。そして、原告、被告会社及び被告藤原は、同年一一月二三日付けで契約書(甲第五号証)を取り交わし、<1>原告が岸本正義医師を引き継いで浦安病院を経営すること、<2>そのために原告の責任で一億円を経営資金として準備すること、<3>被告会社は原告に本件建物を期間一〇年、月額賃料七〇〇万円(契約書上は七七〇万円)で賃貸すること、<4>右賃料は一〇年間据え置きとするが、原告の責任によらず実績が上がらなかった場合は、病院経営の維持に支障のないよう賃料の改定をすること、<5>この契約は、締結後一〇年間は一方的に解除できないものとし、やむを得ない事情が発生したときは、相手方の同意を得て条件を決めて合意解除するものとすること等を内容とする契約(旧契約)を締結した。
(五) 原告は、昭和六二年一月二七日、千葉県知事から浦安病院の開設許可を受け、旧契約に基づき、浦安病院の院長として同病院を経営するようになり、当初の運転資金として約一億円を銀行から借り入れたほか、翌昭和六二年には一億一〇〇〇万円を銀行から借り入れ、被告らの承諾の下に、本件建物の大幅な改修、修繕工事と設備投資を行った。また、原告は、浦安病院の経営について、地域住民に対する医療サービスを重視する方針を採ったことから、院長に就任して数か月後には、被告藤原が行っていた大学病院から患者を転送してもらうための営業活動をやめるように申し入れるなど、同被告が浦安病院の経営に干渉することを拒否するようになったため、同被告は次第に浦安病院の共同経営者的な立場を失い、同被告と原告との関係は単なる本件建物の賃貸人の代表者と賃借人に変化していった。
(六) 右の被告藤原と原告との関係の変化に加え、月額七〇〇万円の賃料が高額であるとして原告が被告藤原に賃料の減額を申し入れたことから、原告と被告らは、契約関係を通常の賃貸借契約に改めることになり、昭和六四年一月一日、旧契約を合意解除して、本件賃貸借契約が締結された。本件賃貸借契約では、賃料を月額五〇〇万円に減額する一方で、原告が被告会社に保証金として一億円を預託し、期間は一〇年から二〇年に延長された。
(七) 原告は、本件賃貸借契約に基づき、浦安病院を経営していたが、平成元年から平成四年までの間の収入(医業収入及び雑収入)は、年間約五億九六〇〇万円ないし約七億一四〇〇万円であったのに対し、支出(原告の給料二四〇〇万円、保険料及び税金を含む。)は年間約六億〇二〇〇万円ないし約七億一八〇〇万円であり、年間約四四〇万円ないし四三四六万円の赤字が生じていた(甲第七号証)。そこで、原告は、平成四年九月、元メディカルコンサルタント会社に勤務し、その後約一八年間病院の事務長をしていた肥田野を浦安病院の事務長に雇用し、経営の建て直しを図ろうとした。肥田野は、事務長に就任後、原告の給料を月額一五〇万円(年額一八〇〇万円)に減額し、支出をできるだけ抑えるなどの経営改善措置を講じたが、本件建物の賃料が年額六〇〇〇万円で、病院収入の一〇パーセントを超えており、近隣の病院の賃料相場からすれば月額三〇〇万円程度が本件建物の適正な賃料と考えられたことから、経営建て直しのためには賃料の減額が不可欠であると判断し、事務長に就任した同年九月以降、被告会社との間で賃料の段階的減額や保証金の一部返還等を求める交渉をした。
(八) 右交渉の結果、平成六年四月二五日、前記覚書により、同年四月以降は、賃料月額五〇〇万円のうち五〇万円を本件保証金と相殺すること及び覚書締結の日から五年以内に賃料を見直すための協議を行うことなどが合意された。
(九) しかし、浦安病院の経営状態はその後も十分な改善は得られず、平成六年度は約七七〇万円の黒字が出たものの、平成七年度には約二六〇〇万円の赤字を出し、資産総額から負債総額を引いた差引純資産額はマイナス二億円余りに達していた。そこで、原告は、平成八年一月二六日付けの書簡(乙第一号証)で、被告藤原に対し、浦安病院の経営の窮状を訴えるとともに、賃料を月額三五〇万円に引き下げ、そのうち五〇万円を本件保証金と相殺して、毎月の賃料支払額を三〇〇万円にすることを申し入れ、かつ、厳しい経営状態からすると、協議の結果次第では原告が他の場所に病院を移転することも考慮に入れざるを得ないと考えている旨を伝えた。
(一〇) その後、原告と被告会社間では、弁護士を代理人とするなどして交渉が継続され、被告会社は、月額賃料を五〇万円減額する意向を示したものの、毎月の賃料支払額を三〇〇万円とすることを求める原告と折り合いがつかなかったことから、原告は、平成八年一一月には、病院を他の場所に移転することを決め、移転先の用地確保等に乗り出すとともに、被告会社にその旨を伝えた(この時点で、病院の移転時期は平成九年一一月と予定されていた。乙第二号証)。これに対し、被告会社は、原告の一方的な賃料減額や解除の申入れは、本件賃貸借契約及び前記覚書から許されない旨を書面(乙第三号証の一)で回答し、改めて本件建物等の原告への売却を含む賃料額見直しの交渉をするように申し入れたが、原告の方針は変わらず、両者の交渉は再開されなかった。
(一一) 右の経緯を経て、原告は、浦安市北栄四丁目所在の土地を病院用地として取得し、同所に五階建の建物を新築して本件建物から移転することになり、平成九年九月三〇日到達の書面で、被告会社に対し、平成一〇年四月六日をもって本件建物を明渡す旨の本件解約の意思表示をした。
2 本件賃貸借契約に、「真にやむを得ない事由がある場合は本契約期間中といえども六か月前に予告して本契約を解約することができるものとする。ただし、原告は予告に代えて六か月分の賃料相当額を支払い本契約を即時解約することができるものとする。」との約定があることは、前記のとおりである。
原告は、右約定が借主である原告の解約権を極端に制限するものであって、公序良俗に違反し無効である旨主張する。
しかし、一年以上の期間の定めのある建物賃貸借(借地借家法二九条参照)については、当事者が解約権の留保をしない限り、期間の途中での解約はできないのが原則であり(民法六一八条。昭和四八年一〇月一二日最高裁判所第二小法廷判決・裁集民一一〇号二七三頁)、本件賃貸借契約における右約定は、「真にやむを得ない事由がある場合」に期間途中での原告からの解約を認める約定であるから、解約権の留保の一種として原則的に有効であると解される。
そして、本件賃貸借契約は、病院施設という特殊な用途に使用されることを目的とする建物の賃貸借契約であり、病院開設許可の関係もあって、借主の適格者は自ずから限定されている。また、被告藤原が本件建物及びその敷地等を取得するに当たって金融機関から多額の融資を受けていたことは前記のとおりであり、乙第四号証及び被告藤原本人尋問の結果によれば、右融資は二〇年間のローン返済とされ、毎月約三〇六万円程度を返済する必要があったこと、解約権留保に関する約定は、原告の当時の事務長であった関昇が作成した賃貸借契約書の原案(乙第四号証)においても、「原告はやむを得ない事由がある場合、六か月前に予告すれば本契約を解除することができる。」との条項(第一五条)が存在していたが、被告の要請で、「やむを得ない事由」が「真にやむを得ない事由」という字句に修正されたこと、以上の事実が認められる。
右に述べた賃貸物件の特殊性、被告藤原の賃貸物件への資本投下とその回収の必要性及び右約定が合意された経緯等からすれば、本件建物の賃貸借期間を二〇年とした上で、期間途中の原告による解約について、「真にやむを得ない事由」の存在を要件として一定の制限を加えることは、実質的にみても何ら不合理なものではないと解される。
したがって、この約定が公序良俗に違反して無効であるとの原告の主張は理由がない。
なお、「やむを得ない事由」とは、一般的には、期間の途中で解約することに合理的ないし相当な理由があることを指すと解されるが、これに「真に」という字句が加えられたことによって解約の要件が具体的にどの程度に限定されるのかは明確ではない。この点について、被告藤原本人尋問の結果は、「原告がこの契約に基づいて経営を続けた場合にもう破産すると、そういうふうなものを想定してのことでございます。」と供述しているが(同調書一九項)、それは被告藤原がそのように考えていたというにとどまり、原告と被告らとの間で、右約定の解釈について具体的に協議されたことを認めるに足りる証拠はない。そうすると、規定上で特に具体的な例示もない本件の約定については、「真に」という字句は、「やむを得ない事由」を厳密に解釈するという意味以上には解されないというべきである。
3 次に、原告がした解約について、「真にやむを得ない事由」が存在したかどうかを検討する。
(一) 前記認定の事実関係によれば、本件賃貸借契約締結後の浦安病院の経営は、当初から経営収支が赤字であり、平成四年以降、肥田野を事務長に雇用し、原告の給料を削減し、できるだけ支出を抑えるなどの経営改善策を講じたが、経営状態は改善されず、毎年負債が累積する状況にあったこと、経営状態が悪化する要因として年間六〇〇〇万円に及ぶ本件建物の賃料の支払があったため、平成四年以降、原告は、被告らと賃料減額について交渉を重ねたが、本件保証金と賃料との一部相殺の合意や、五〇万円程度の賃料減額の意向が示されただけで、経営の建て直しに必要な程度までの賃料減額はされなかったこと(なお、平成八年五月の賃料減額合意の存否については後に判断する。)、甲第七号証によれば、浦安病院の平成八年度の経営収支は一九〇三万円の黒字が出ているが、資産総額から負債総額を引いた差引純資産額はマイナス一億九五一三万七〇〇〇円に達していたこと、原告は、平成八年一月に被告会社に送付した書簡で、協議の結果によっては病院を移転することを考慮せざるを得ない旨を表明し、その後、同年一一月には一年後に移転する意向を伝えた上、最終的に平成九年九月に、明渡期日までに六か月以上の期間を置いて本件解約の意思表示をしたことが認められる。
右の諸事実からすると、原告が本件建物で病院経営を継続することは、その経営努力にもかかわらず困難な状況にあったと考えられるから、原告には、本件賃貸借契約を期間の途中で解約するについて、「真にやむを得ない事由」があったということができる。
(二) 被告らは、原告が甲第七号証により明らかにした浦安病院の経営収支は、原告の給料、保険料及び税金等が支出に含まれており、これらを支出から除くと、平成元年から平成八年までの間で差引収支差額が赤字であったのは平成二年度だけで、その他の年度は黒字であり、特に原告が病院を移転する意向を示した平成八年度は、四六二四万二〇〇〇円の黒字であった旨主張し、その資料として乙第一七号証の一、二、第一八号証の一ないし三、第一九号証を提出している。
しかし、個人病院の経営収支を見る場合に、税務上では、経営者の院長に対する給料等は支出に含まれず、他の経費等を控除した残額が課税対象となる所得に該当し、この所得がある限りは課税所得が赤字にならないのは当然であるが、病院という事業体の経営収支を考える場合には、院長個人の労務の対価として支払われる適正な報酬や将来の危険に備えるための保険料は、経営上不可欠な費用として支出に含めて考えるのが相当であり、前記認定した原告の給料(平成四年までは年額二四〇〇万円、それ以降は一八〇〇万円)が院長の報酬として不相当であるともいえない(原告本人尋問の結果によれば、原告は、勤務医時代には二四〇〇万円以上の報酬を得ていたことが認められる。)。また、その収入に伴って負担する税金等も、病院経営全体の収支を考える場合に支出に含めることが直ちに不相当とはいえない。なお、甲第七号証によれば、平成八年度の差引収支差額は一九〇三万円の黒字になっているが、翌平成九年度は二二三四万六〇〇〇円の赤字となっており、前記認定の負債の累積等も考慮すると、右時点で浦安病院の経営状態が極めて悪化していたことは事実であると考えられる。
(三) 被告らは、浦安病院の経営状態が悪化したのは、原告が、収益面に対する影響も考えずに、大学病院や松江病院からの患者の転送を断ったため、収入が減少したことによるものであるとも主張する。
原告本人尋問の結果によれば、原告は、浦安病院の院長に就任後、地域医療を重視する基本方針から、それまで被告藤原の営業活動により大学病院から受けていた患者の転送を受けようとしなくなったり、入院患者一人当たりの床面積を増やすため、ベッド数を少なくするなどしたことが認められるが、右措置は原告の医療に対する考え方に基づくものであり、原告が右措置を採ったことによって具体的に生じた収入減の有無や程度も証拠上明らかとはいえない。
したがって、この点に関する被告らの主張は採用することができない。
(四) また、被告らは、被告藤原が、本件建物等を取得するために前記のとおり銀行借入による多大な投資をしていることや、本件建物の所在する地域で新たに病院を開設することが千葉県の医療計画上の制限から現在不可能であり、被告会社が、本件建物を病院として他に賃貸することはできない状態にあることなどを、原告の解約によって被告らが被る不利益な事情として主張する。
確かに、乙第一一号証の一ないし三及び被告藤原本人尋問の結果によれば、被告藤原は、本件建物等を取得する際に銀行から借り入れたローンが残っており、現在でも月額三〇〇万円程度の返済を続けていること、本件建物が所在する東葛南部保健医療圏では、既存の病院による病床数が千葉県の医療計画の必要病床数に達しているため、現在本件建物で新規の病院開設許可を得ることは不可能な状況にあり、被告らは、原告が本件建物を明け渡した後、やむを得ず同地域でも開設許可取得が可能な診療所を開設し、本件建物の一部を利用するに過ぎない状態が継続していることなどの事実が認められるが、前記した原告の浦安病院における経営状況からすれば、被告らが原告の本件賃貸借契約の解約によって受ける不利益を考慮しても、なお原告には右解約を根拠付ける相当な理由があるというべきである(甲第一六号証によれば、原告が被告会社に昭和六一年から平成一〇年までの間に支払った本件建物の賃料の合計額は七億二一九〇万円であり、被告藤原の前記借入額を優に上回っていることも認められる。)。
したがって、この点に関する被告らの主張も採用することができない。
4 以上によれば、原告がした本件解約の意思表示は有効であり、これにより本件賃貸借契約は終了したということができる。
二 争点2について
1 原告と被告会社間の賃料減額合意の存否
(一) 原告が平成八年一月二六日付けの書簡(乙第一号証)で、被告藤原に対し、浦安病院の経営の窮状を訴えるとともに、賃料を月額三五〇万円に引き下げ、そのうち五〇万円を本件保証金と相殺して、毎月の賃料支払額を三〇〇万円にすることを申し入れ、その後、原告と被告会社間では、弁護士を代理人とするなどして賃料減額についての交渉が継続されたこと及び原告が平成八年五月から平成一〇年一月までの間、毎月四〇〇万円を賃料として現実に支払っていたことは、既に認定したとおりである。
(二) 甲第六号証、乙第三号証の一、二、第二〇号証、第二一号証及び証人肥田野の証言によれば、右賃料減額の交渉は、主として被告らが委任した渡邊顯弁護士と肥田野との間で行われ、原告側は、賃料月額を三五〇万円とし、そのうち五〇万円を本件保証金と相殺することにより、毎月の支払額を三〇〇万円にすることを求めて交渉していたところ、渡邊弁護士から、平成八年五月一三日に電話で肥田野に五〇万円の賃料の減額には応じる意向が伝えられ、原告は、同年五月分以降は、五〇万円減額した賃料四五〇万円から相殺分五〇万円を控除した四〇〇万円を毎月支払うようになったこと、原告側は、その後も、賃料月額を三五〇万円に減額するよう求めていたが、被告らがそれ以上の減額に応じようとしなかったため、同年一一月、原告から被告らに対し、本件賃貸借契約解約による病院移転を前提とした協議を申し入れたこと、これに対し、渡邊弁護士は、同年一一月一三日付けの内容証明郵便で、原告に対し、原告は同年五月以降、従前の賃料額から五〇万円を減額した賃料を振り込んでいるが、被告会社が五〇万円の賃料減額を了解したことはなく、毎月の振込額を黙認するつもりもないことを通告するとともに、原告が解約の申入れを撤回して改めて被告らと協議するよう求めたこと、渡邊弁護士が、平成八年五月分の賃料の振込額が四〇〇万円であったことを被告藤原から知らされた際に、被告藤原に送付した同月三一日付け書面には、「肥田野氏には、過日、電話で譲れる最低限は月額五〇万円の実質的な減額(保証金とは相殺しない)であると申し入れており、その回答を待っていたところでした。先方は当方の案を飲んだようですが、明確な合意が成立した訳ではありません。形式的には月額五〇万円の不払が発生したことになります。また、下水や設備、構造等の修理、修繕についても合意がなされていません。あるいは、とりあえず四〇〇万円を支払う一方で、他方では調停か裁判を申し立てるのかも知れません。」との趣旨の記載があること、以上の事実が認められる。
(三) 右に認定したところによれば、渡邊弁護士が、交渉の過程で、口頭で肥田野に、賃料を四五〇万円に減額する意向を示したのは事実であるが、その前後を通じて原告側は、賃料月額を三五〇万円とし、そのうち五〇万円を本件保証金と相殺することにより毎月の支払額を三〇〇万円にすることを求めており、賃料減額の問題が右時点で双方の了解に達したという状況ではなかったこと、平成六年に賃料の内金五〇万円を保証金と相殺することを合意した際には書面(甲第二、第三号証)による覚書が交わされているのに対し、右五〇万円の減額については何らの書面も作成されていないこと、原告は、平成八年五月分以降毎月四〇〇万円の賃料を振り込むようになったが、同年一一月には被告会社から内容証明郵便で異議が述べられていることなどを考慮すると、同年五月一三日に、原告と被告会社との間で本件建物の賃料を四五〇万円に減額するとの確定的な合意が成立したと認めるのは困難というべきである。
(四) 他に、原告主張の賃料減額の合意を認めるに足りる証拠はないから、この点に関する原告の主張は理由がない。
2 原状回復費用による相殺
(一) 甲第一、第六、第一一号証、乙第八号証の一ないし三、第九号証の一ないし三、第一〇号証及び証人肥田野の証言によれば、本件賃貸借契約には、「本契約が解除その他の事由によって終了したとき、原告はその所有物件をすべて搬出の上、遅延なく本物件を原状に回復した上で被告会社に明け渡さなければならない。」との約定(第一七条)があること、原告は、平成九年九月に正式に本件建物の明渡を被告会社に通告した後、肥田野及び錦織弁護士が、被告ら代理人の渡邊弁護士との間で、原状回復の範囲や保証金の返還金額等について交渉を重ねたが、被告らの側から具体的金額等は示されず、交渉はまとまらなかったこと、その後、明渡期日も迫ってきたため、肥田野は、被告会社従業員嶋田正樹との間で、本件建物内の什器、備品、医療機器等の動産類について、原告が搬出する物と建物内に残置する物との振り分けを行い、これに従って明渡作業が行われたこと、原告が明け渡した数日後には、内部を一部改修した上、被告らによって診療所「浦安クリニック」が本件建物の一部を使用して開業されたこと、本件建物は、旧契約に基づいて原告が使用中の昭和六二年に、原告が約一億一〇〇〇万円を投じて大幅な改修、修繕工事が行われており、その際には、部屋のレイアウトを変更するために間仕切り等も変えられたが、本件賃貸借契約締結後は特に大きな改修工事等はされていなかったこと、以上の事実が認められる。
(二) 被告らは、原告の原状回復義務が、本件建物を旧契約締結時の状態に回復するものであることを前提に、その工事費用として合計六三八八万五三六〇円を要する旨の見積書(乙第六号証)を提出している。
しかし、旧契約から本件賃貸借契約締結に至る経緯は既に認定したとおりであって、旧契約は、原告が本件建物を被告会社から賃借して浦安病院を経営する点では本件賃貸借契約と同様であるが、被告藤原が共同経営者的な立場で経営に関与することが前提とされており、その契約に基づいて、原告が被告会社の了解の下に本件建物の大幅な改修等を行ったものである。そして、本件賃貸借契約は、原告と被告藤原との関係の変化に伴い、旧契約の契約期間の途中でこれを合意解除した上で、新たに純然たる建物賃貸借契約として締結されたものであり、賃貸借期間も同契約締結時から起算するなど旧契約とは別個独立の契約として締結されたと解される。前記のとおり、本件賃貸借契約の原状回復に関する約定は単に「原状」に回復するというものであり、一般的には「原状」とは当該賃貸借契約締結時の状態を意味し、それが旧契約締結時における状態を指すことを示すような文言は本件賃貸借契約の約定中に存在しない。以上に加えて、本件建物は病院として使用することを目的として建築されたものであるが、原告は、昭和六二年の改修等の後、約一一年間にわたり本件建物を病院として使用してきており、今さら本件建物を旧契約締結時の状態に回復する必要性がどの程度あるのかも疑問であることなどの点を考慮すると、原告が被告会社に対して負担する原状回復義務は、本件建物を本件賃貸借契約締結時の状態にすることであると解される。
したがって、被告らが、本件で主張する原状回復費用は、その前提を欠いているといわざるを得ないのであり、右に述べた意味での原状回復に要する費用の要否及び金額を具体的に認めるに足りる証拠は、本件において何ら提出されていないから、結局、この点に関する被告らの主張は理由がないというほかはない。
第四結論
以上によれば、本訴請求は、本件解約の意思表示により本件賃貸借契約が終了したことに基づき、貸主である被告会社及びその保証人である被告藤原に対し、各自、本件保証金一億円から、前記覚書による賃料相殺分二四〇〇万円及び借入金相殺分二二〇〇万円、平成八年五月から平成一〇年一月まで毎月五〇万円の未払賃料合計一〇五〇万円、平成一〇年二月分ないし四月分の右相殺分を除く未払賃料一〇一六万六六六六円(二月分と三月分の合計九〇〇万円に四月七日までの日割賃料一一六万六六六六円を加えた金額)を控除した残額三三三三万三三三四円及びこれに対する訴状送達の日の翌日である平成一〇年六月二七日から支払済みまで商事法定利率年六分の割合による遅延損害金を求める限度で理由があり、本件賃貸借契約が存続していることを前提として、本件解約の意思表示後の賃料の一部の支払を求める反訴請求は理由がない。
よって、主文のとおり判決する。
(裁判官 寺尾洋)
物件目録
(主たる建物の表示)
所在 浦安市堀江六丁目一八八三番地五、同番四、同番一、同番三
家屋番号 一八八三番五
種類 病院
構造 鉄骨造陸屋根三階建
床面積 一階 六〇五・五二平方メートル
二階 五五五・五〇平方メートル
三階 二四五・〇〇平方メートル
(附属建物の表示)
符号 1
種類 機械室
構造 コンクリートブロック造亜鉛メッキ鋼板葺平家建
床面積 一四・〇〇平方メートル